【鼈甲・ふらんす物語】
1980年代後半 わたくしが27~28歳の頃 長崎でのお話です。
7歳年上の本田時夫氏(和洋菓子 長崎梅月堂)と月に1~2回 お酒をご一緒させて頂いていました。
本田氏は青山学院大学経済学部卒業後に2年間パリの菓子店で修行をしていた人でした。
お酒がすすむとパリの話になりました。
様々なジャンルの話題になりました。
わたくしは本田氏が話している言葉の意味がまったく理解できませんでした。
深い教養の持ち主の正面に立つとき メッキは一瞬で剥げ落ちてしまうものです。
自分が粗野で無教養の取るに足らない存在であることを思い知らされました。
その当時 梅月堂のキャッチコピーは
「おいしい文化を贈ります。長崎梅月堂」 でした。
文化とは何なのか
それすらわかりませんでした。
「考えていても答は出ない。兎にも角にもパリに行こう」
と思いました。
一週間の予定で単身パリに出かけました。
シャンゼリーゼ通りの街路樹の豆電球の照明
金物屋さんの店頭に並べてあるやかんの並べ方がおしゃれ
エールフランスの飛行機のシートカバーの布のカットが丸みを帯びていて色気がある
見るもの聞くもの 感動の連続でした。
センスの良さ オシャレ感覚 芸術に彩られた装飾
同じ人間社会 長崎や東京で見る光景と同じはずなのに何かが違う
何がどう違うのかを表現する言葉は見つからないけれど何かが大きく違う
もしかしたらこれが文化というものなのかもしれない
首を傾げながら長崎に帰りました。
酒席で話す本田氏の会話の内容 空気感が理解できるようになりました。
そして
稼業である鼈甲のお店を継承していくためには パリで通用するデザイン力が不可欠なのではないか
と思うようになりました。
鼈甲の製作技術は中国で考案された技法です。
中国からヨーロッパへ渡り西洋人に珍重されました。
そして江戸時代にヨーロッパから長崎に伝わりました。
明治になり外国からいらしたお客様に自由にものを販売できるようになりました。
鼈甲はヨーロッパより長崎のほうがつくりが緻密で優れている
と西洋人に認められたことで鼈甲細工は長崎で文化の華を咲かせました。
そういう歴史を鑑みるとき
川口の鼈甲が再び西洋人に評価されても良いのではないか
という想いが日に日に膨らんでいきました。
1980年代後半 ミラノやベニス パリには鼈甲を売っているアクセサリー店が何軒もありました。
パリで生まれ育った女性 パリジェンヌに認めていただいて初めて文化と呼べるようになるのではないか
パリの表通りの何処かのお店にショーケース2個でいいから川口の鼈甲を展示販売したい
そしてゆくゆくは小さなお店 PETIT(プチ)ショップを出したい
室町時代後期に京都で創業した高級羊羹の老舗 虎屋黒川氏
和菓子という日本の文化をパリの人たちに押し付けるのではなくて
フランス人の好みに合わせて和菓子を提供するお店をパリで展開していて
とらやさんと川口では歴史も伝統もすべてにおいて比較にならない。
それでもとらやさんの10000分の1ぐらいの規模であれば川口でもやれるはず
日本の美 日本の文化を彩る暖簾の末端を飾れるようになりたい
それがわたくしの商いに対する揺るがない指針になっていました。
年に一度 パリに出かけていました。
店舗の家賃などを具体的に調べました。
パリやロンドン在住の日本人のデザイナーと商品の打合わせをしていました。
パリに支店がある暖簾である川口の長崎本店はどういう店構えであるべきか
という視点で本店をリニューアルしました。
それでも周りの人に話すとそのままシャボン玉のように宙に舞い上がって消えて無くなりそうな気がしたので
ほとんど誰にも話すことなく独りで準備をしていました。
シャンゼリーゼ通りの一角に小さなお店を出したときに
報道機関に発表するつもりでした。
しかし 平成3年(1991年)6月19日 突然鼈甲の国際商取引全面禁止が決まりました。
夕方の遅い時間に長崎新聞と西日本新聞の取材がはいりました。
翌朝の朝刊には
「長崎の老舗 川口鼈甲店の若い店主 苦悩の表情で頭を抱える 店舗をリニューアルしたばかりなのに」
という文字が踊りました。
取材に際して
「パリにお店を出したいという夢が潰えました」
とは言えませんでした。
悪いときには悪いことが重なるものです。
不幸なことが続きました。
閉店まで追い込まれました。
そして2016年4月からヤフーオークションで皆様にお求めいただけるようになりました。
わたくしは1959年生まれです。
60歳台半ばに差し掛かります。
腎臓が壊れてしまっていて人工透析で命を繋いでいます。
あと何年生きられるか 最期のカウントダウンにはいっていることを感じます。
わたくしが彼岸へ旅立つとき
小柄なパリジェンヌを意識しておつくりしていた10,000円以下のPETIT(プチ)シリーズの商品が
沢山手元に残ります。
廃棄処分するか骨董品店でガラクタと同じ扱いで販売されるか
二つに一つです。
べっ甲専門店のホームページに掲載してあるお値段が高くないアクセサリーの写真を見ました。
丸や三角や四角の模様をそのままぶつ切りにしただけの立体感のないもの
若い頃にべっ甲の原産国で現地の職人がつくっていたものに毛が生えたようなデザインのものばかり
人はそれぞれの高さを目指して別々の山を歩いています。
十人十色 いろいろな趣味嗜好の方がいて良いのかもしれませんが
同業他店の商品と川口の職人がおつくりした商品
物心つかない子供の頃から豊かな芸術性に囲まれて育ち
知らず知らずのうちに深い審美眼を身につけているパリジェンヌを意識したPETITシリーズ
ものが違う 次元が違う そんな気がしてなりません。
これまで10,000円以下の商品はあまり出品してきませんでした。
週に1点 身体に負荷がかからないペースで出品を続けてまいりました。
しかし 自分がいつまで出品や梱包をする体力を維持できるだろうかと思うとき
PETITシリーズの商品にも光が当たって欲しい
お気に召していただける方に愛用していただきたい
という思いが強くなってきました。
これからときおり PETIT という冠をつけて
1990年代 定価10,000円前後で販売していた商品を出品させていただきます。
ほかのべっ甲店の安価な商品は日本の南方海域やインド洋の
黒っぽくてきれいではない原材料でできています。
素材がべっ甲である ただそれだけのものばかりです。
川口の10,000円前後の商品はカリブ海産のあめ色が混じった上質のきれいな原材料でおつくりしています。
製造原価やコスト度外視 きれいでなければ川口の鼈甲ではない
という創業者から継承してきた姿勢に基づいています。
夢を語るのは歩き始めてから
何ひとつかたちにできなかったのに
手が届かなかった夢を口にするのはいかがなものか
と思いつつ
2024年の夏 4年に一度のオリンピックで世界のアスリートがパリに集うというお祭に寄せて
30年以上前のフランスパリにまつわる小恥ずかしい昔語りを綴らせていただきました。
シンガポール・香港の鼈甲職人と
英語と漢字による筆談で語り合いました
インド洋に浮かぶモルディブ・セイシェルの鼈甲職人と
拙い英語で語り合いました。
カリブ海のドミニカ・ハイチ・ジャマイカの鼈甲職人と
英語と片言のスペイン語で語り合いました。
彼等は箱型のべっ甲製品をヨーロッパへ輸出していました。
ヨーロッパ在住の架橋の鼈甲職人と膝を突き合わせて語り合いたくて
ベニスやミラノ・パリの鼈甲を販売しているお店に足を運んで店主にお願いしたのですが
紹介してもらえませんでした。
川口の創業者である曽祖父が外国人に向けて書いた鼈甲の解説文
Tortoise-shell ではなくて Bekkou
という固有名詞で統一されていました。
祖父は 世界の名品 鼈甲 という言葉をあちこちで使っていました。
鼈甲細工において世界の頂点を目指す
という信念を感じます。
中国から世界に広がった鼈甲
世界に点在していた鼈甲職人たち
いま現在 どうしているのでしょう。
Googleで 「パリ シャンゼリーゼ通り」 というキーワードで検索してみました。
忘れることのできない懐かしい光景がたくさん表示されました。
鼈甲とは川口の商品を指す言葉
口にこそしたことはありませんでしたが
祖父の立居振舞から感じ取ることができました。
そしてその想いをかたちにするため
美意識に長けたセンスの良いお洒落な街 パリ を彩る輝きのなかで
ショウウィンドウの一角を飾れる暖簾になりたかった
日米経済摩擦による原材料の輸入禁止という運の悪さに苛まれることなく
パリシャンゼリーゼ通りのショーケースに商品をお並べしていることを思い描きながら
ヤフーオークションで商品紹介をさせていただきます。
鼈甲は英語では tortoiseshell トータスシェル
フランス語では ecaille エカイユ
ドイツ語では Schildpatt シルトパット
イタリア語では tartaruga タルタルーガ
スペイン語では carey カレイ
ポルトガル語では carapaa de tartaruga カラパサ・デ・タルタルガ
オランダ語では schildpad スヒルパッドゥ
ラテン語では testudinis dorsum テストゥーディニス・ドルスム
ロシア語では черепаха チリパーハ
中国語では 海甲
と表記発音します。
玳瑁 (タイマイ) 亀の甲羅のもつ美しい斑模様と
艶のある
あめ色に輝く
鼈甲は
中国人によって考案され
自然の美しさを生かした文化のひとつとして
架橋によって
世界じゅうに伝えられました。
そして西洋人の心を捉え愛用され
現在まで伝承されてきました。
そして日本人独特の繊細な感性によって育まれてきた
卓越したものづくり 職人芸 が融合して
日本の鼈甲制作の技術は
世界の度の国の鼈甲より緻密で優れているという評価を
西洋人のお客様からくだされたものでございます。
【2023年9月 諏訪中央病院名誉院長の鎌田實先生の新刊 「ちょうどいいわがまま」 より抜粋】
「行き詰まってきたら動いてみる」 という章のなかで
わたくしどものお店のこと
わたくしが病に倒れてからいまに至るまでの経緯
そして ヤフーオークションでの営業再開
滅びゆく鼈甲という文化について触れていただいています。
「川口の生き方は 一言でいうと わ が ま ま
我 が ま ま 我が思うままに 生きたいように生きている」
と仰っていただいたのは昨年の夏でした。
わたくし もうすぐ高齢者になります。
きれいな鼈甲製品を皆様にご紹介させていただける
そういう穏やかな日々が一日でも永く続いてほしい と
思いました。